morimoblog
2005-07-20T23:20:17+09:00
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もりものブログ
Excite Blog
シュンペーター
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2005-07-20T23:19:55+09:00
2005-07-20T23:20:17+09:00
2005-07-20T23:20:17+09:00
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エッセイ(課題)
すこし変な言い方になるかもしれないが、彼の思想はいわゆる「経済学」からは「はみだしていた」のではないか、という気がする。著者も、彼の思想を、経済学というよりは歴史社会学と記したほうがよいと述べている。そんなシュンペーターが経済学を「ヴィジョン」の学としてとらえていたということは、とても興味深い。その彼のヴィジョンは貴族的趣味や超然とした学問的身構え、政治や企業でのつらい体験によって切れ味を増したが、しかし、厳格な経済論理を犠牲にすることで得られたものだという。それは、ひょっとしたらほとんどトレードオフの関係にあるのかもしれない。わたくしのような凡人ならなおさらであろう。
そんなシュンペーターから学ぶべきところとは何か。貴族的趣味などはおそらくまねできまい。学ぶべきところは、やはりみずからのヴィジョンを打ち立てるためには、経済学や歴史などさまざまなものを学び、それを通して悩み続けるしかないということなのだろうと思う。ヴィジョンとは、「展望」と訳されるように、みずからの望ましさを未来にたいして投影する作業である。そう考えると、ヴィジョンを打ち立て、それを可能にする政策を考えることは、何が望ましいのかをみずからに問い続けることから始まる。それはつまり、自己の内面と格闘することであり、そしてそれによって影響を受ける他者の望ましさとどう折り合いをつけるかの葛藤なのだろう。これからの研究で、彼らと同じ気持ちを少しでも共有できたらよいと思うしだいである。
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人間好きになるための非合理的人間考vol.1
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2005-07-16T02:21:04+09:00
2005-07-16T02:21:11+09:00
2005-07-16T02:21:11+09:00
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新聞
まずは、実際に歌詞を見てください。ここからみることができます。
・・・いかがでしょうか。ダメおやじの歌?いや、たしかにそうでしょう(笑)。こんな大人にはなるまいと思った方もいるでしょうね。そしてこのあまりにも不まじめで退廃的な歌を歌うことに、まじめな植木さんは初めたいへん悩んだといいます。そんな彼に歌う決心をさせたのが、熱心な仏教信者であった彼のお父さんのことばだったそうです。そのお父さんは、
「『わかっちゃいるけどやめられねえ』という歌詞は親鸞聖人の教えにあっていて、人間の真のすがたをいい当てている。青島君(作詞者は前東京都知事の青島幸男)はなかなかの歌詞を作ったな。」
といったそうです。
人間誰しも煩悩がある弱い存在だ、ということだそうです。煩悩まみれのわたくしは、このはなしを聞いてちょっと感動しました。
このような教えを説いた親鸞は、長い仏教の歴史のなかでも浄土真宗の宗祖として、そして偉大な思想家として現在も尊敬を集め続けています。彼は仏教の改革を唱えた法然の熱心な弟子でした。法然の改革とは以下のようなものです。彼が生きた鎌倉時代に流行していた浄土仏教は、すべての人を救うべきであるという教えをもっていました。しかし一方で、長くて難しい念仏を唱えられるようになることでしか人々を救わないとしていました。そのような現実を嘆き、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生することができるとして、皆が救われるようにしたというものです。その法然の弟子である親鸞もこの教えを継承しました。
さて、その法然と親鸞のどこが違ったのでしょうか。法然は従来の仏教の戒律、すなわち肉を食べ妻を持ってはならないということを厳格に守った人でした。それに対して親鸞は、修行中も自らの煩悩を断ち切ることができなかったそうです。念仏を唱えているときも愛欲の思いがつよく念仏に集中できない。まあ要は、ついエッチなことを考えてしまうわけですね(笑)。
そんな親鸞は自己を責め、自分の中にある煩悩や悪の心が捨て去りがたいものであることを悟ります。従来の戒律に異を唱え、破戒僧と言われ異端扱いされたので、いやおうなしに自己の内面を徹底的に見つめることになったのかもしれません。そんな彼は「悪人正機の説」を唱えるようになります。善人が救われるのならば悪人が救われて当然だ、というものです。
しかし、自分の弱いところを認めることは、えてしてその人を開き直らせ、悪事を奨励してしまいそうです。とくに仏教を信じているわけでもないわたくしたちならなおさらのことですね。親鸞は自分の強いところも弱いところもすべて受け入れていこうといったのだ、ということは肝に銘じるべきでしょう。
話を元に戻しますと、『スーダラ節』の主人公は親鸞と同じくとても自分に正直です。自分のやっていることが合理的でも生産的でもパレート改善でも何でもなく、自らの瞬間的な欲望や快楽を満たすためだけの行為であることは「わかっちゃいる」のだけど、それでも「やめられない」のです。彼は自分の弱さを認めているのですね。それでもやはり、彼や親鸞のように自分の弱さを認めることはとても勇気のいることでしょう。
ちなみに、わたくしも煩悩を抱えたか弱い人間です。いいとか悪いとかという以前に、もうどうしようもないので、どうにか折り合いをつけて一生付き合っていこうとおもいます。いま勇気をふりしぼってみました。
ところで、あなたはどうですか?
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アマルティア・セン
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2005-07-16T02:16:13+09:00
2005-07-16T02:16:20+09:00
2005-07-16T02:16:20+09:00
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エッセイ(課題)
「冷静な頭脳と温かい心」について、現在、教科書に体系としてまとめられている経済「学」は、冷静な頭脳になることは教えてくれるのだが、温かい心を持つことそれ自体は教えてくれない。おそらくそれこそが、経済学のやっかいなところであり、そしてまた面白いところなのであろうが、そういった特性ゆえに、ある経済学者が構築する経済理論やモデルは、その人の価値判断に大きく依存することになる。そう考えると、ケインズの「経済学の大家は種々の才能のたぐい稀な組み合わせを要求される」という言葉が意味を持ってくる。センにとって、それは哲学だったのだろう。ひとくちに哲学といっても、彼が学んだのは認識学、倫理学、政治哲学など多岐にわたる。それが彼の理論に多大な影響を与えたことは明らかである。
そして彼の思想に決定的な影響を与えたのが「寛容の精神」であろう。この精神が、著者がこのことばを繰り返しているように、センの思想の根底にあることはおそらく間違いないであろう。さまざまなものを受け入れるからこそ、ある特定の人たちが飢饉に苦しむという状態に人一倍心を痛めていたのではないかと思われる。わたくしたちも、「冷静な頭脳と温かい心」を持ちたいと望むのであれば、さまざまな人や考え方を受け入れ、それについて思いをめぐらせてみることからはじめなくてはならないだろう。そのためにもたくさんの本を読まなくてはならないのだろうけど。
最後に、悲惨な境遇にある人々とその暮らしに関心を寄せることこそ、経済学の真髄であるという彼の言葉にはとても感銘を受けた。経済学を学び、合理的個人を自分の中にそれこそ受け入れていく過程でも、救われるべき人々を救うという気持ちは忘れてはならないと思った。
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第55回 文達
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2005-07-16T02:12:16+09:00
2005-07-16T02:12:12+09:00
2005-07-16T02:12:12+09:00
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文達
では、実際それがどのように問題になっているのか。その視点がこの資料には欠けていると思われる。たとえば、国民医療費が国民所得を圧迫しているのであれば、国民所得の消費内訳を示せばよい。また、医療費増加の原因が高齢化の増加にあるならば、表2のデータはもっと過去にさかのぼってみるべきではないか。そして、常識的にわかるとはいえ、高齢者の人口割合も前提として示しておきたい。いずれにしろ、資料提供者なりの仮説や問題意識はこの資料から読みとることはできなかった。
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第53回 文達
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2005-07-16T02:10:28+09:00
2005-07-16T02:12:40+09:00
2005-07-16T02:10:31+09:00
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文達
しかし、そのような仮説を立てるには、少し情報が足りない。まず、資料ではすべて支出の割合を比べている。分母であるGDPなどの大きさがわからなければ、たとえば韓国のように日本以上に特徴的な国と比べることは難しい。また、就学率(特に高等教育)や教育を受けている人口に関するデータも必要だ。日本の割合が低いことは、少子化との関係があるので、若年人口を他の国と比べる必要があるためである。そういう意味では、過去の日本の割合に関する時系列データがあるとさらに良いだろう。
データURLはこちら]]>
トーク・トゥ・ハー
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2005-07-16T02:07:32+09:00
2005-07-16T02:07:33+09:00
2005-07-16T02:07:33+09:00
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映画
この映画で貫かれているのは、理性や正義、もしくは善や悪という感覚ではない。誰かを愛する人間の醜さ、残酷さ、そして美しさである。植物状態のアリシアを妊娠させてしまうという理性で考えれば許されない行為をしてしまったベニグノ。たとえばニュースでこういう事件が報道された場合、私たちは犯罪者を罵倒するだろう。しかし、理性や正義、はたまた合理的思考などでは人は愛せない。その点、彼のアリシアに対する愛は、見返りなどを求めないとても純粋なものだった。その純粋な愛と、その残酷な結末を描ききったこの作品には私を含め、人間誰もが持つおどろおどろしい一面を見せ付けられた。ラスト・シーンでは、生への希望が見いだせたので少し救われたような気がした。
…蛇足ながら、アリシア役のレオノール・ワトリングがとてもとてもかわいかったので、ベニグノが彼女に一目ぼれした気もちだけはとてもよくわかった。これも理性じゃないんだよな…(笑)
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ジョンQ 最後の決断
http://morimoblog.exblog.jp/1288291/
2005-07-16T02:07:09+09:00
2005-07-16T02:07:09+09:00
2005-07-16T02:07:09+09:00
morimoo
映画
実は私はこの映画を見て、手塚治虫の『ブラック・ジャック』を思い出した。ブラック・ジャックは法外な治療費を要求する代わりに神業のような腕前で患者を治してしまう無免許医。しかし、彼は普通の医者が助けない・助けられない患者たちも救い、金でしか動かない病院の医者たちを憎悪している。ブラック・ジャックがジョンQの前に現れたら何と言うだろうか。
デンゼル・ワシントンの迫真の演技にはただ圧倒された。また、ちょっと野暮な疑問かもしれないが、理由はともあれ拳銃を持って病院に立てこもった被告が殺人未遂で無罪になるのが不思議で仕方がなかった。
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カストラート
http://morimoblog.exblog.jp/1288286/
2005-07-16T02:06:37+09:00
2005-07-16T02:06:37+09:00
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映画
兄リカルドの書いたオペラを歌い、ヨーロッパ中でとてつもない成功を収めるファリネッリ。兄弟で一緒に数多くの女性も愛し、まさに華麗な日々を送る。しかし、兄の書く大衆迎合的で凡庸なオペラにいつしか不満を抱くようになっていた。そんな中、ヘンデルのオペラをファリネッリの恋人が盗み出してくる。そのヘンデルのオペラを歌うことを決意するファリネッリ。そして彼はそれも神のような歌声で成功させる。しかしそれは、兄弟の関係の終わりを意味していた・・・・・・。
去年、たまたまとっていた音楽(声楽史)という授業で、たまたま1回だけ出席した時にちょっと見たので、今回全編を見ることにした。ところで、私は声楽に関する知識が全くない(あれ?)ので、物語の歴史的背景はわからなかった。それはとても残念なことだと思った。知っていればもっと楽しめていただろう。しかし、オペラに集中せずに本を読んでいた貴婦人をファリネッリが歌声で失神させてしまうシーンなどは、正直見ていて鳥肌が立った。
物語中に一番考えさせられたのは、ファリネッリはカストラートであることに苦悩し葛藤していたことである。彼は歌手として究極の肉体を手にしていた。だがそれは、遺伝子を残す生物としての自分と引き換えであった。彼は多くの女性から求愛される一方、「カストラートめ!」と蔑まれたりもしていた。彼はさしずめ、孤独なピエロのような存在であったのではあるまいか。
最後に、物語とは直接関係ないが、なぜカストラートのような存在をローマ・カトリック教会は許していたのか、純粋に気になった。いまでこそ、性転換はおろか妊娠中絶まで許すまじとしている教会は、彼らを宗教音楽に利用していたという。その意図にたえうるだけの美しい歌声であったのであろうことは、この映画で十分感じ取れた。]]>
「社員にも『囚人のジレンマ』協調か自己か」
http://morimoblog.exblog.jp/1288263/
2005-07-16T02:03:28+09:00
2005-07-16T02:03:28+09:00
2005-07-16T02:03:28+09:00
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コラム
長期的関係を前提とする終身雇用制では、ゲーム理論における繰り返しゲームが適用され、ノウハウや知識の共有といった協調関係が築きやすくなる。しかし、特定の人間同士が結託して不公平を生むこともあり、不祥事の温床にもなりやすい。逆に成果主義的な要素が強く、人員の流動性が高い組織では、社員は自分の利益をより重視し協調は成立しにくくなる。
いま日本には「一生一つの職場で働き続けるべき」という伝統的な志向がある一方、アメリカ並みに転職を繰り返す人もいる。この二極化は、揺れる雇用市場の現状も映し出している。
<意見>
終身雇用の利点をゲーム理論で解き明かそうとしているのが興味深い。協調を捨てて成果主義の世界に身をおく人たちはどのような人たちなのか。記事では、例としてあのライブドアの社員たちを追っている。彼らは寝袋で会社に泊まる日もあり、前の会社より給料が下がった人もいるという。しかし自分が企画した事業をやり遂げる充実感は格別だという。社員1人1人に仕事の面で大きな裁量が与えられているのである。終身雇用制度の下では、入社してしばらくの間は上司について下積みという期間がつき物だ。しかしライブドアのような会社には、もちろん個人的なスキルややる気は前提となるが、そういうものはない。そして、成果主義を好む人たちは、そういった仕事は純粋に会社のためというよりも、自分を磨くスキルアップの場として捉えている人がほとんどのようだ。それゆえ、人材の入れ替わりも激しい。ライブドアでは毎月20人前後が入社する一方で、ほぼ同数が会社を去っていくという。もし会社の成長が止まったら一気に人材が流出する可能性も否定できない。しかし、終身雇用もゲーム理論的な観点以外で大切な意味合いがある。「ものづくり」で経済を成長させ、今なお保っている日本にとって、工場に」おいて効率的な生産ラインを築くことは不可欠である。そのためには生産ラインに関わる従業員の緻密な技能形成や各従業員間のコミュニケーションが不可欠であり、そういった意味では終身雇用は有意になるのである。
終身雇用と成果主義、どちらが働く環境として良いのかは一概に言い切れない。それこそその人の仕事観・人生観に関わってくるだろう。加藤紘一氏がおっしゃっていたが、何が自分にとって幸福か考えてみるべきではないか。]]>
「電力自由化 乏しい実感」
http://morimoblog.exblog.jp/1288257/
2005-07-16T02:02:53+09:00
2005-07-16T02:02:53+09:00
2005-07-16T02:02:53+09:00
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コラム
2000年3月から電力の自由化が始まった。今まではコンビナート・デパートといった大口の使用者が中心だったが、2007年4月から一般家庭も含めた100%の完全自由化が予定されている。しかし、自由化で新規に誕生した出延期の供給会社と既存の電力会社との競争は、思ったように拡大していない。それは以下の理由による。
①小口の利用者向けには減圧機で何度も電圧を下げなくてはならないため、コストがかかる
②送電網は電力会社が持っているため、送電は電力会社に委託しなくてはならず、そのための費用が かかること
つまり、新規の参入障壁が高く、なかなか対等な競争ができないのである。2007年以降に前面自由化されても、強い価格支配力を持つ電力会社との競合のなかで新規参入する企業が現れ、通信や宅配便のように競争が進むかどうか、現段階ではまだ不透明だ。
<意見>
電力といえば、ガス・水道と並んで私たちの生活になくてはならないもの(いわゆるライフライン)であり、規模の経済性により収穫逓増の効果がある産業だと考えられてきた。ところが電力の場合は商品の差別性がほとんどなく、また生産コストに占める設備費の比率が大きいことから規模の経済が特に働いた。このため電力産業では大きな会社ほど価格競争力を持ち、結果として独占状態が生まれたのである。しかし、独占化による弊害も大きくなり、今回自由化することとなった。
もともと、自由化の目的の一つは電力会社の電気料金の値下げにあった。自由化の論議が始まった1990年代後半は日本の電気料金は海外より2割高いといわれていた。しかし度重なる値下げにより、平均すればアメリカやドイツより安くなった。その限りでは、自由化論議の成果はあったといえるかもしれない。しかし、電力会社が値下げすれば、新規事業者はそれより安い値段設定を強いられることになり、事業環境が悪化するというジレンマがある。
この問題を解決するには、究極的に送電網を公共財化すること以外にないのではないか。電気は作りおきができず、先に述べたように商品は同質で、サービスによる差別化も難しい。競争できるところが価格面くらいしかないのが現状だ。その価格が送電網による送電費用に依存しているとなれば、そこを改善しない限り競争が起きて真の自由化が達成されることは難しい。
とはいえ、電気は生活に必要不可欠なものである。いち早く完全自由化したカリフォルニアでは、取引所での電力価格が高騰し、二度の大停電を招いたため、2001年9月から自由化を停止している。そういった本末転倒の事態にならないように慎重に自由化について考えてゆかなくてはならないだろう。]]>
「失業率、ニートの心反映せず?」
http://morimoblog.exblog.jp/1288254/
2005-07-16T02:02:21+09:00
2005-07-16T02:02:21+09:00
2005-07-16T02:02:21+09:00
morimoo
コラム
総務省の労働力調査において、統計上の完全失業者は「月末一週間に仕事をしなかった」かつ「仕事を探していた」となる。仕事に就かず、学校にも行かず、職業訓練にも参加しない、いわゆる「ニート」と呼ばれる人たちは完全失業者にならない。そのため、ニートが増えると失業率が改善するという矛盾した現象が起きる。
また、有効求人倍率は、統計上求人情報の就業先が離れていても、その地域の有効求人数に計上されてしまう。例えば、いまだ不況にあえぐ北海道に、現在好景気の愛知県などからの求人が来れば、北海道のほとんどの人は距離的な問題などでその仕事を敬遠するが、それは北海道の求人情報として計上される。そのため、有効求人倍率は上昇するが、実際の北海道の雇用情勢とはズレが生じる。
総務省はそれらのズレを改善するために十五歳以上の人口のうち、働いている人の割合を示す「就業率」の公表に向けて検討を進めている。
<意見>
前半の、ニートは失業者にカウントされないという話はわりと有名かもしれない。内閣府の調査では、2002年の時点で85万人のニートがいるという。また、15歳から34歳までの完全失業率は2004年平均で6.8%と前年より0.7ポイント改善したが、ニートを失業者として単純加算すると10.4%になるという。ただし、失業率の算出方法がそもそも悪かったというわけではなくて、その算出方法が時代とそぐわなくなった。仕事がない人は皆仕事を探しているという前提だったのである。
ひとくちにニートといっても、さまざまなタイプが存在する。研究者によれば、ニートは4種類に分類される。すなわち、
ヤンキー型(反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ)
ひきこもり型(社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ )
立ちすくみ型(就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ )
つまずき型(いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ)
である。いずれのタイプも、普通の人々ならば容易に想像がつく。知り合いが、自分の子供が、もしくは自分が当てはまる人もいるだろう。しかし、ニートという存在がクローズアップされてきたのはつい最近のことである。彼らは、完全失業率の統計からは無視された存在だったのである。
有効求人倍率の話はあまり知られていないかもしれない。記事にある誰も応募しないような求人情報がどれくらいあるのかはわからないが、倍率を上げるためにわざと計上している可能性も否定できない。
これらが今まで問題視されなかった原因がこの雇用統計にあるとすれば、統計が示す数値とそれによって構築されるモデルを、常に現実と照らし合わせて考えてみる必要があるだろう(もっとも、統計は現実を知るために存在するのだが)。
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五味太郎『さらに・大人問題』
http://morimoblog.exblog.jp/1288248/
2005-07-16T02:01:42+09:00
2005-07-16T02:01:43+09:00
2005-07-16T02:01:43+09:00
morimoo
本:その他
とはいえ、学校というものは、そう簡単にはなくならないと思う。著者にならって商売として考えれば、供給する側が圧倒的に優位にたっているからである。もうすぐわたくしは長かった学校生活とはおそらく別れを告げるのであるが、大人の論理にはなるべく気をつけようと心に誓ったしだいである。]]>
中島らも『お父さんのバックドロップ』
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2005-07-16T02:00:41+09:00
2005-07-16T02:00:58+09:00
2005-07-16T02:00:41+09:00
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本:その他
本書にでてくる子供たちも、みなお父さんに反抗している。たしかに、イロモノ悪役プロレスラーや売れない落語家など、うだつのあがらない、子供はけっして尊敬しないようなお父さんたちばかりだ。そしてそのお父さんたちが、子供たちの尊敬をふたたび勝ちとる、というのが本書のストーリーだ。
「子供に尊敬される」ことは、じつはむずかしい。子供は正直だからである。尊敬に値するものがなければ、「父親の権力」を振り回しがちであるが、それも反抗期の子供の前では無意味だ。しかし一方で、子供はやはり、お父さんがあくまでヒーローであることを望む。「父親でありつづける」ことは、おそらくかなりしんどい。そんなことを思うと、著者のあとがきのことばが身にしみた。
「きみたちのお父さんにもきっとへんなところ、子どもっぽいところがあるはずです。それがわかると、きっと お父さんのことを、もっとすきになると思います。」
しかし、わたくしに子どもができたら、ありのままを見せてあげたいな、と思った。むしろありのままを見せる余裕が大事なのかなとも思う。それでわたくしのことを好きになってくれるだろうか。もっともわたくしは、バックドロップなどする気はないが。]]>
斉藤孝『「頭がいい」とは、文脈力である。』
http://morimoblog.exblog.jp/1288225/
2005-07-16T01:59:16+09:00
2005-07-16T02:00:01+09:00
2005-07-16T01:59:16+09:00
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本:その他
みんな誰しも頭が良くなりたいと思っている。私もその一人である。かたや、誰が見ても頭がいいと思う人がいる。その差はなんだろうと日々考えていたのだが、彼はそう考えるのは意味のないことだという。「頭がいい」ということは絶対的なことであり、またそれは性質ではなく状態であるという。そして「頭がいい」とことは幸福感とつながっていると説く。その「頭がいい」ことを支えるのが、意味のつながりを押える能力である「文脈力」(著者の造語だそうだ)であるという。
この本には何か具体的に頭の良くなる方法が書かれているわけではなく、頭が良いとはどういうことなのかを理解することに主眼が置かれている。彼の提示する頭のいい姿はとてもポジティブだ。自分は頭が良くないので頭を鍛えなければならないという強迫観念にとらわれている人には、ぜひ読んでもらって元気を出してほしいものである。
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五味太郎『大人問題』
http://morimoblog.exblog.jp/1288221/
2005-07-16T01:58:50+09:00
2005-07-16T02:00:18+09:00
2005-07-16T01:58:51+09:00
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本:その他
子供のころ、いやな先生・いやな大人というのは誰にでもいただろう(今も?)。考えてみれば、彼らは彼らの立場でしか物事を考えていなかった。彼らの考え方を私たち子供に押し付けていた。その欺瞞に子供であった私たちは反発していたのだ。しかし今になって、私自身もそういった意味で大人になりかけているのかな、と少し反省した。私もいずれ、著者がからかった学校を出て、これまた著者がからかった大人の社会で生きてゆかなくてはならない。しかし私は、そんな社会の中にいても、幼い頃の私自身が嫌ったようなつまらない大人にはなりたくない。本書は、大人になりかけた私へのワクチンになってくれたようである。
最後に、権丈先生と同じようなことを著者が言っているので、引用しておきたい。
「先生の言うこと書くことをそのまま聞いてそのまま写す、いわゆる生徒という立場も情けないと思います。生徒という形でサボっているといわれても仕方ありません。」
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