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2005年 07月 16日
この章には異端の経済学者たちが登場する。異端とは「正統からはずれていること」(広辞苑)であるから、異端が生まれるためにはとうぜん正統の存在が前提となる。この時代は「正統」が生まれた時代でもあったのだ。この時代を代表する「正統的な」経済学者は、需要・供給の均衡におけるプロセスの要素として「時間」に着目したアルフレッド・マーシャルである。政治経済学が経済学になり、その経済学が数学で語られるようになり、その体系が教科書にまとめられた。そんななか、異端の経済学者が登場することになったのである。
この章を読んで感じたことは、経済というのはその時代、政治的状況、そしてパラダイムなどによって変化しうるものではないかということだ。この章に登場した異端の経済学者たちは、異端とは呼ばれているものの、みな説得力がありそうなものである。経済学に絶対的な定理が存在しえない以上、正統と異端の差は支持者の数とも言えそうである。本章の内容とは離れるが、典型的なのはマルクスだろうか。彼の説は一時期正統になりかけたが、今ではやはり異端にとどまっている。 では、彼ら異端の歴史的な意義とは何であろうか。正統派は「黙っていても」歴史に残るのであり、異端でありながら歴史に残るということはそれなりの意義があってのことであろう。彼らの意義とは、富裕層の貯蓄と過剰供給が帝国主義の時代を招くことを予測していたということである。そして歴史はそのとおりになった。いまも、それはかたちを変えて続いている。大企業による世界進出や、大国による政治的・経済的・文化的な支配などである。異端の人々は、正統派の人々が示したビジョンが想定しなかったような事態を想定することに意義があるのではないかとおもわれる。そのように考えると、異端が正統を育て、また異端も正統に育てられるという関係が理想であるのだろう。
by morimoo
| 2005-07-16 01:56
| エッセイ(課題)
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